FrontPage/2014-01-10
「冬のリシリ」 その4
三日ぶりに顔を出した黎明の陽射しが、純白の斜面を朱く染めた。
深い霧に覆われていた山容が次第に姿を現し、厳しさと優しさを露わにする。
惹きこまれるような美しい稜線が、空と大地を分けている。
雪と岩の織りなす微妙な陰影、複雑な隆起と陥没、肌理こまやかな優雅さと峻厳な重量感。
しばし時が経つのを忘れ立ち尽くす。
そこにはただ風だけが吹いていた。
白く、あらゆるものを白く覆い尽くす雪。
刻まれた一条のトレースだけが、厳しい自然の中に示す私たちのちっぽけな自己主張。
海岸線から一途にただ山頂を目指して歩いてきた。
鋭いナイフリッジや深雪のトラバース、危ういキノコ雪を越えて。
最大の難所である「門」を越えれば山頂は近い。
尾根上に立ち塞がるように「門」はあった。
壁の弱点であるルンゼ(溝状の場所)を登る。
始めは容易く思えたが、取り付いてみると雪の付き方が絶悪だ。
傾斜の強い壁に新雪が50㎝以上ついていて、すべてを落としていかなければ上へあがれない。
支点を取るべき脆弱な灌木は氷に覆われ、掘り起こさなければ姿を現さない。
不安定な体勢でひたすら雪を掘る。
頭の上に覆いかぶさるように迫る雪をシャワーの如く頭から浴び続ける。
苛立つ程に遅々としたペースで、身体を挙げていく。
アックスよりもむしろシャベルで雪を落とした方が効率的かもしれない。
あるいは鍬のようなもので一気に掘り起こしたいくらいだ。
ルンゼを抜けると尾根の向こう側は切れ落ちて高度感がある絶壁であった。
「落ちてもロープにぶら下がるだけ」と高をくくって不安定な雪庇の縁を登り、腰がらみでフォローを迎えた。
隣の東稜を窺うと林道で別れた北海道の二人が同じくらいの高度の所を進んでいる。
登るルートは違うが、奇妙な親近感を覚えるものだ。
手を振って健闘を称える。
向こうも手を振りかえしてくれたようで同じ気持ちだったのかもしれない。
「門」を突破して雪壁を登ると「ローソク岩」の基部に着く。
このまま稜線をたどると十中八九、転落するとの事前情報を得ていたので
ここから25m×2回の懸垂で尾根の基部へ降り立った。
降りた場所は沢上の地形で尾根へと登りかえさなければならない。
強い北西風は稜線を越えると勢いを弱め、東面へ多くの雪を落とす。
風が弱い反面、東側には厳しいラッセルが待ち受けているのだ。
深く柔らかい雪に胸まで没しながら、遅々とした歩みで高度を稼ぐ。
気づけばあたりは深いガスに覆われ、空からは白いものが舞い始めた。
視界は30mほどであるが、その先にあるものが全て真っ白なので、遠近感も傾斜感もわからなくなる。
「門」を過ぎれば楽勝だと思っていたが、このホワイトアウトでは進むべきルートに確信が持てない。
稜線は依然として戸隠の「蟻の戸渡り」の様相を呈しているので尾根の基部に沿って巻いていく。
稜線に戻るところでは再び「門」と同様な場所を登攀したが、今度は全く支点が取れないので開き直ってスピード重視ですすんだ。
深い雪が私達の体力と時間をどんどん奪っていく。
山頂まではあと少しと思うも、どんどん悪くなる視界の先には次々と新たな斜面が現れるのである。
ともかくも前進を続けると突然強風にあおられた。
そこは山頂間近の主稜線であった。
足元は強い風のためクラストしてアイゼンの歯の先しか食い込まない。
ブカブカ雪の東面とは全く違った様相であった。
時計を確認すると16:30をまわっていた。
昨夜の雪洞は1400m付近であったので1721mの山頂まで、多く見ても350m程度の高度差を実に10時間を要したことになる。
山頂の祠や標識を探したが見当たらず、あるのは2m四方ほどの大きな氷の塊だけであった。
時間的には行動を中止すべきだが、避難小屋までは500mほどの下りで足元は硬いので普通に下れば1時間程度の見込みだ。
暗くなっても、パートナーはGPSを持参しているので何とかたどり着けるとの判断で北稜を下り始めた。
下り始めると西側から猛烈な吹雪が吹き上げてきた。
ガスは飽くまで濃密で視界は数メートル(ときに1m)。
地形図とGPSを駆使して進むも、意外に尾根は複雑で何度も方向を修正した。
風が強く、その場に立ち止まること自体危険であったので、ともかくも足探りで下って行った。
途中、視界が開けてきてずっと下の方へ続く尾根が見え、パートナーと北稜で間違いないと確認し合って進むと
それは3mほど先にあったただのコブであった。
まったくの目の錯覚であったことに我ながら驚きを隠すことができなかった。
遠近感を奪われた我々の目には雪と岩の模様が、明瞭な尾根の形に見えたのであった。
足元は不安定で氷のモナカを踏み破ると中の柔らかい雪に足を取られた。
慎重を期して後ろ向きにダブルアックスを極めながら一歩ずつ下る。
刹那、足元の氷が崩れた。
アックスにぶら下がるかと思われたが、刺していたアックスの氷ももろとも崩れ落ちた。
一瞬すぐに下の斜面で止まるかと思われたが、次の瞬間私の体は宙に投げ出されていた。
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